2012年04月13日

1986年の残照 令嬢 20

 早苗は会場の正面に立つと両手を揚げてパチパチと手を叩いた。「皆さん、今晩はようこそお越し下さいました……」と早苗の挨拶が始まると会場内はさーっと静かになっていった。防犯と刑務所出所者の社会復帰のための慈善活動への協力を感謝する旨を述べる彼女の挨拶が終わりかけたとき「それでは、今日は新しい方をご紹介します」と言った。彼女は視線を会場の後ろのほうに向けて「警視庁捜査一課に赴任された早坂警部です」と腕で一番後ろのテーブルにいる早坂を指し示した。
 参加者は一様に後ろを振り返って、俯きがちに手を揚げている早坂に視線を向けた。

 早苗の挨拶が済むと、会場の脇から二人の男とバイオリンを持った女が出て来た。一人の男はピアノの前に座り、もう一人の男は中央に立ち、女はその横に立った。
中央に立った男が言った。「それでは、今晩はオペラの名曲でお楽しみいただきます。その他にもいろいろとおもしろい歌を歌わせていただきます」

 彼らは演奏を始めた。中央の男は力強く伸びやかなテノールの歌声を披露してくれた。ヴェルディやプッチーニのオペラを歌った。ラ・トラビアータより「乾杯の歌」、トスカより「星は光りぬ」、トゥーランドットより「誰も寝てはならぬ」などの定番の歌曲を歌った。
 その他にもカンツオーネや演歌をオペラ風にアレンジして歌ったりもした。早坂も他の参加者も歌をかなり楽しんでいたようで、一曲終わるごとに大きな拍手が会場内に沸き起こった。

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2012年04月12日

1986年の残照 令嬢 19

 笙院は早坂の背後から現れたこの女性に落ち着いてお辞儀をした。
「こちら、早坂警部ですね?」と若宮早苗は笙院に向かって早坂越しに尋ねた。
「ええ、そうです。警視庁捜査一課に転任されてきた早坂警部です」
「早坂さん、はじめまして。若宮と申します」と早苗は早坂に、まるで蝶のような軽さと優美さで会釈した。
「こちらこそはじめまして、早坂です」早坂は普段より多少緊張していた。
「このあとすぐに挨拶をします。そのときに早坂さんのことを皆さんにご紹介したいんです」早苗は少し顎を突き出し気味にして言った。
「あの……」早坂は戸惑っていた。
「わたしが前でお名前を呼びますので、手を揚げて振ってくださればいいわ。こんな風に」と早苗は手を揚げて振って見せた。「よろしいですね?」
 早坂は早苗に憂えるような視線を送っていた。
 笙院は黙っている早坂を心配そうに見ていた。「早――」と笙院が言うや早坂は返事をした。「わかりました。そのようにします」と早坂は低く厳かに言った。
「そう。良かった。それじゃあ、お願いしますね」と早苗は子供を優しく諭すように言い残すと会場正面に向かって歩いて行った。

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2012年04月11日

1986年の残照 令嬢 18

 人が会場内にもかなり増え、騒がしくなってきていた。すぐ隣にいる者の声も聞き取りにくくなっていた。
「今晩は何をするつもりなんだろうな」早坂は笙院に訊いた。
「そうですね、まずチェス大会は無いでしょうね。ルーレットが登場しそうな雰囲気はありますが……」早坂の睨むような視線を受けて笙院は弁解するように言った。「いえ、もちろん賭けごとは無しです。普段ですと、講演会や慈善活動の紹介、ボランティアの表彰などがあるんですがね。犯罪心理学や刑法の専門家が講演することもありますね。でも、今日は演壇がありませんからね」
「ボランティアの表彰ってのは?」
「早苗お嬢さんが手掛けてる慈善事業に協力してくれたボランティアの方を称えて表彰するんです。防犯キャンペーンで街頭でチラシを配って頑張ってくれた人などに感謝の気持ちを込めて贈り物をするんですよね」
「ああ、そう」早坂は素っ気なかった。
「今晩はこのまま飲んで食べて終わりですかね」
 そのとき早坂は後に艶めかしい空気を感じた。肩まで垂らした髪の女性が後ろから顔を覗かせた。

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2012年04月10日

1986年の残照 令嬢 17

 中小企業の経営者風の二人は話を続ける。
「マネーの供給を増やしてくれるなら、なおさら今のうちにそのカネを貯め込まないといけないね。お姉ちゃんはともかく、株と土地しかないだろ。製造に投資してもこれだけ円高になっちゃあ輸出は終わりだからな」
「輸出がダメだから、内需拡大のためにマネーを吐き出すんだよ」
「内需ったって、こんな狭い国で何を買うんだ? 狭い家の中が物でいっぱいになっちまって足の踏み場が無くなっちまうよ」
「だから、庶民にはカネを使わせない。使うのは、議員先生とお役人様と公共事業を受注する民間企業だけ。そこで市場に溢れたマネーを山分けする」
「おれたちはそいつらにくっついてお零れを貰うしかないな」
「そう、だから、政府もできれば株式を上場してる会社に公共事業を回してほしいわけよ。おれたちはその企業の株を買って儲ける。あとは公共事業をやる土地を買う。便乗値上げを狙ってその周りの不動産を買う」
「公共事業をやる土地なんて、議員先生とお友達じゃないとわからんだろうよ。話が出たあとにせいぜいその周りの不動産の買い取り合戦に参加できるかどうかだな」
 会話を交わす二人のうちの一人が、早坂を一瞥した。早坂の顔には憂いが見えた。
「おっと、あまりはしたない話は控えましょう。ここは社会の安全を守ってくれてる警察官殿の集まりだからね」
「そうそう、経済よりも正義だよ、大事なのは。これから金融緩和の時代、カネが株や土地に流れる。不正が無いかしっかり見張っていてもらわないとな」
「その通りだ」
 二人はさもおかしそうに笑っていた。

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