2011年10月09日

1986年の残照 円高 1

 ニューヨーク五番街、セントラルパークの前に立つプラザ・ホテル。

ここで1985年、ヴァーノン・デュークのジャズの名曲「オータム・イン・ニューヨーク」が似合う季節に先進五カ国の首脳が集まって為替レートに関する話し合いが行われた。その結果結ばれた合意はホテルの名前にちなんでプラザ合意と呼ばれる。

 プラザ合意後、日本には極端な円高により輸出産業が中心の日本経済は大打撃を受けるとの悲観論が蔓延したが、実はこの国際間合意は日本も戦後やっと欧米並みの産業水準に達したということの証しでもある。欧米が発明・開発した製品は、品質管理重視の産業方針により日本で高品質化され、米国を中心に欧米諸国に輸出された。日本は、産業力の向上に伴い、狭い住宅を除けば、生活水準そのものもかなり向上した。

 技術ただ乗り論もよく議論される。日本は欧米が発明した技術を利用して儲けてるだけだと欧米先進国から非難される。プラザ合意は、もう欧米発祥の技術に頼るのではなく、日本独自の新技術開発をして世界に貢献せよと戦後の産業政策の大転換を促している。

 そうはいっても、発見・発明を中心に据える産業構造への転換は容易ではない。種を見つけても、簡単には芽が出ないし、出たとしても国民の雇用を支える一大産業に成長するまでには時間がかかる。また、本当に成長するかどうかも不透明だ。とりあえず、目先の食い扶持を確保するために、円高の経済への悪影響を最小限に食い止める政策が打ち出される。金融緩和でカネがじゃぶじゃぶと市場に流される。

 カネはカネを求める仕事に流れる。新事業は資金を必要とするから、そこに集中的に流れればいいのだが、知識と知恵と発想が必要な新事業は簡単には起きない。すると、手っ取り早くカネを吸収できる分野へとカネは流れていく。だから、土地と株だ。実質的な価値とは無関係に土地と株を転がすことで価格は上昇し、そのことが人々の仕事を生み出す。

 カネがカネを生み出す仕掛けに乗ってみんなが踊る。


posted by 論虚空 at 07:54| 1986年の残照 序章 円高 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月10日

1986年の残照 円高 2

 年が明けて1986年になっても政治家や財界人は前年のプラザ合意で進む円高をどう乗り切るかを話し合っているのだが、円高は止まることを知らない。

 政治家も当座の応急措置だけを考えていたわけではなく、世の中に存在しない技術や最先端技術を生み出す国にするための施策を議論している。
 創造力を向上させるには、過当競争に陥っている受験戦争や詰め込み教育は良くないから、教育にゆとりを持たせて、暗記力よりも発想力を伸ばすようにしようとか、世界最先端技術を開発するために国家を代表する叡智を集めた巨大国家プロジェクトを立ち上げようとか、いろいろだ。
 低価格・高品質だけが取り柄の、欧米起源の製品の集中豪雨的輸出から、世界の進歩に貢献する科学技術の開発に日本の役割を転換しなければならないとわかってはいた。

 政府がこんな状態の日本で、東京の西多摩地域、秋吉川の駅前の小さく寂れた定食屋で江垣真一はかつ丼を食べていた。
 豚カツの衣のパン粉は荒くがさがさとし、豚肉も硬くうま味が欠けている。それを割り下の醤油や砂糖を必要以上に増やして煮込み、無理矢理柔らかくしようとしているのがわかる。ごはんも割り下で水っぽくなっていなければパサパサで食べられたものではないだろう。
 豚カツやごはんのまずさを甘ったるい味付けでごまかして客の舌に媚を売ろうとしているのが見え見えなのだ。それでも、昼飯をとっておらず午後遅くに食べている江垣は、腹が減ってるせいかそんな味でも我慢できた。

 店のテレビでは国会中継を流していた。
 プラザ合意後の円高にどう対処するかで政府与党と野党が侃々諤々の議論をしていた。これは所詮万年与党と万年野党との議論だ。野党議員が文句を言ったところで、多数決原則の議会では多数を占める与党の前ではなすすべもない。
 与党議員は、ときにおおらかに包容力を持って、野党議員を受け入れるような素振りをしたかと思うと、ときに馬鹿にしたようにからかいながら野党議員をいなしている。馬鹿にされた野党議員は苛立って吠え立てる。与党議員は駄々っ子をあやすように「まあまあ」と親の寛容さを見せる。この態度がますます野党議員を苛立たせる。
 これはほとんど漫才だ。
posted by 論虚空 at 07:52| 1986年の残照 序章 円高 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月11日

1986年の残照 円高 3

 丸顔で小太りの店のおばちゃんが割烹着を付けたまま奥の調理場から出て来た。
 手には急須を下げている。おばちゃんは江垣の湯飲みにお茶を注いだ。
「仕事かい?」おばちゃんは言った。
 江垣は黒い背広を着ていて、黒いアタッシュケースを下げていた。普段はラフでカジュアルな格好が多いのだが、今日は身なりは良くてもどこか胡散臭い業界人風に見えた。
「うん、そうだね」と江垣はテレビから目を離すとおばちゃんを見た。
 このおばちゃんは、国民共通の頭痛の種となっているプラザ合意も円高もまったく関係無さそうなほどに幸せな丸い顔をしていると江垣は思った。

「最近はあんたみたいな人がよく来るよ」
「おれみたいな?」と江垣は怪訝な顔をすると続けて、探るように言った。「みんな、やっぱ不動産関係かな?」
「いやー、あんたもそうかい。もうこのへんじゃ、みんな大騒ぎになってるよ。本当にどうなることやら」おばちゃんは破顔一笑して言った。

 おばちゃんの言う大騒ぎというのはこの町を歩いていても外観ではわからない。春を待つ土が掘り返された田んぼが広がった先に連なる奥多摩連山の稜線は美しく、ここが二十三区と同じ東京都であることが信じられないくらい自然は豊かだが、町は人通りが少なく、寂れている。

「そんな大騒ぎになってるんだ。今からでも商売のチャンスはあると思う?」江垣は物欲しげに上目遣いで言った。
「どうかねー。何しろすごいことになってるからね」
「土地が動いてるって聞いたんだけど、みんなニヤニヤするだけで口が堅いよね」
「あー、そうかい」おばちゃんは笑うと言った。「うちにさえ、いろんな人が来るからね。あんたもこの店に興味はあるかい?」
「この店ね」と江垣は店内を見回した。十人も客が入ればいっぱいになるような広さしかなく、壁もテーブルもイスも床もすべてが古く時代遅れだった。「そうだねー」と江垣は経験豊富な不動産業者が値踏みするように首を捻った。

posted by 論虚空 at 08:23| 1986年の残照 序章 円高 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月12日

1986年の残照 円高 4

 おばちゃんは思案気な不動産業者風の男の答えを待つ間もなく話し出した。
「あたしもね、どうしようかと悩んでるんだよ。ここでは戦争前に先代からやってるからね。簡単に土地を手放すわけにもいかない。それにここを離れてどうやって仕事をしていくかもわからないしねー」おばちゃんは嬉しい悩みを話した。

「億単位のカネがいるよね?」江垣は言った。
「あっはっはっははー」とおばちゃんは腹を抱えて笑うと続けた。「あんたもいい線いってるよ。いつでも相談に乗ってあげてもいいよ」
「あのさー、それじゃ、訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「いいよ。何でも訊いとくれ」おばちゃんは顎を引き、胸を張って言った。

「この店の買い取り価格を言ってくる不動産屋はいくつくらいあるの?」
「そうねー」とおばちゃんは秘密めいて言った。「これくらいかな」と両手を示した。
「結構話は煮詰まってるの?」江垣は焦ったように言った。
「そりゃ、あんた、いろんなことを考えてるよ。この店を売るとかどうとかという話だけじゃないからね。このへんの商店仲間とも話し合ってるよ。知ってるよね? すごいものが出来るんだよ」
「もちろん、知ってるよ。国立の科学研究所ができるんだよね」

「それがさ」とおばちゃんはさも嬉しそうに前に手を突き出して振った。「最初はなんだか難しいものが出来るんだってことだったのよ。そんなものが出来てもあたしらにゃ関係無いって思ってたのよ。
 そしたら、政府の計画がすごいらしいじゃないさ。ここら一帯にものすごい施設がいくつもできて、人もたくさん住むようになるらしいんだね。
 それで、土地を取られちゃうんじゃないかってそりゃ恐れたわよ。でもさ、国がそれなりの価格で買い取ってくれるらしいって言うからそれでみんなほっとしてたわけよ。
 そしたら、それからがたいへんよ。
 あたしの知り合いの農家の奥さんなんか、毎日不動産屋さんの相手をさせられてるらしいのよね。それがね、農地の転売は規制があるんだけどここでは転売の許可は簡単に下りるみたいなのね。それでもって、価格がどんどん上がっていくのよね。
 それも、転売するたびに上がるようになってるらしいのよ。
 中にはもう手放した農家もいるんだけど、損したって悔しそうなのよね。だから、他の農家はじっと待ってるのよ。転売業者に儲けさせるのはバカバカしいからね。それで、値上がりを見込んで様子見をしてるの」
 おばちゃんは一気に話し終えると、その幸せそうな丸顔をさらに丸くして、夢見るような視線を遠くに投げかけた。


posted by 論虚空 at 18:19| 1986年の残照 序章 円高 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。