2011年11月01日

1986年の残照 ジャーナリズム 5

 コーヒーカップを受け皿に置くと、江垣は樫でがっしりと作られているテーブルの傷跡を眺めていた。
「どう? ここのコーヒー結構いけるでしょ?」田代は言った。
「ええ、そうですね。味わいがある店ですね」
「今はどこもかしこも開発ばやりだからね。こういう古くて変わらない店に来ると落ち着くよね」

「そうすると田代さんは古いものを守りたいほうですか?」と江垣は皮肉っぽくニヤリと笑った。
「そりゃ、古いものを大事にしなけりゃいけないとは思うが大事にしすぎるとね。あのさ、江垣さんも例の繊維の件を追ってるの?」

「繊維業界もたいへんですよね。古い設備を政府に買い取ってもらわないとやっていけない。中国、台湾からどんどん安物が流れてきてますからね。
 でもね、政府が老朽化した設備を買い取ってあげたらまずいですよね。どの産業だって、設備の更新にはリスキーな投資をしてる。繊維産業だけ古い設備を買い上げてたら、モラルが低下しますよ」

「場合によるんじゃないかな」コーヒ−を啜ると田代は言った。「繊維産業が戦前から戦後ずっと日本経済を支えて来たのは事実だ。国家経済に貢献してくれたのなら、その分は恩返しをしてもいいような気もしないでもないんだが、どうもやり方がな……。
 まず社会的公正が始めになきゃいかんよ。そのうえで経済的効果が出るような方法を考えないとな。
 それでさ、江垣さんはこの繊維の一件を追ってるの、追ってないの、どっち?」



2011年11月02日

1986年の残照 ジャーナリズム 6

「どっちだと思います?」江垣は神妙な顔をして言った。
「繊維の件を追ってるから通産省の前で会ったんだろうね。誰と会ってるのよ?」田代は言った。
「大はずれ」江垣は頬を緩めて言った。「あれは大手がみんな追ってるから、僕みたいな力の無いフリーが追っても得るものは少ないですよ。すべて、田代さんみたいな大手の一流記者さんに食い荒らされてて、残飯すらない状態でしょうからね」

「また、そういうことを言う」と田代はやれやれといった表情をした。「うちらだって決して楽してやってるわけじゃないんだからさ、ネタ元を求めて足を棒にする毎日だよ」
「足を棒にするって」と江垣は笑った。「タクシー、ハイヤー使い放題の御身分でそうおっしゃいますか」
「まあ、そりゃ、経費の点では恵まれてるのは認めるけど、週刊誌にスクープを抜かれることが増えてきてるから、うちもデスクが記者の尻を叩いてる。物質的な豊かさでは精神的な辛さを相殺できないんだよな」

「物質的に豊かなのは認めましたね。素直でよろしい」と江垣はにこやかに話した。「ところで経験豊富な敏腕記者の田代さんに伺いたいんですが、今回の繊維業界の汚職では、現役官僚は捕まりますかね?」
「わかってて聞いてるの?」田代は疑わしそうな目つきをして言った。

2011年11月03日

1986年の残照 ジャーナリズム 7

「いえいえ、とんでもない」江垣は慌てて否定した。「そりゃ、普通に考えれば、この老朽化設備の買い取り計画を作った官僚がいるわけで、そこに接待だの賄賂だのの事実が出て来たらアウトでしょうね。
 人間は弱いものですよ。最初は人を救うためにやっていたことが、巨額のカネが動くとなるとちょっとお小遣いが欲しくなる。
 ボランティアで寄付金集めしてた善意の人々も打ち上げのときは寄付金の一部を使って酒を飲む。でしょ?」
 こう言うと江垣は目で笑った。

「なんだよ、やっぱ取材のほうは結構進んでるんじゃないのかよ。どこまで、調べてんのさ」と田代の語気が心なし強くなった。
「ですから、手を出してませんて。すべて大手の一流記者さんにお任せですよ。今言ったくらいの展開だったら高校生でもわかるでしょうに。皆さんはすでにもっとおわかりでしょうからね」

「うーん」と田代の疑念は晴れたようでもなかった。「それなら、なんでまた通産省の前にいたんだい?」
「あれはね、永田町に行ったついでに散歩で霞が関まで来ただけですよ。でも、通産省は気になるんですよ。いろいろとね。わかりますよね?」江垣は意味ありげに言った。
「繊維以外で何かスキャンダルがあるの? もしかして、事務次官の女性問題とか?」田代はとっさに思いついたことを口にした。

2011年11月04日

1986年の残照 ジャーナリズム 8

「女性問題! すばらしい! 僕もそういうネタが欲しいです。いつだったか有名なパパラッチがインタビューで答えてたんですが、人はカネ、権力、セックスには常に興味がある。
 だから、パパラッチの需要が無くなることは無いって。
 まさに高級官僚の女性問題はパパラッチの三原則のうちの二つ、権力とセックスが関わってきますからね、ニュース価値が高いですよ。それに、カネのおまけが付けば、三原則パーフェクトですね」

「本当?」と田代は半信半疑だった。
「残念! そういうとびきりのネタはございません」
 こう言うと江垣はコーヒーを一口啜った。
 田代は考えを巡らせるように言う。「永田町から霞が関へね……政官癒着で何かあったかな? 政官はいつも癒着してるから、ほじくればいくらでもおかしな話は出て来るとは思うが……」

 江垣は期待を込めて乗り出した。「そうなんですよ、そこで、政官の表と裏に精通し、あらゆる細部・暗部に至るまで張り巡らされている大新聞・毎報新聞のネットワークに頼りたいんですよ」
「ちょっと待ってよ、それじゃ、まるでうちの新聞社が政官と結託して悪さをしてるみたいじゃないか。いいかい? 新聞は社会の木鐸なんだよ」田代は冗談めかして言った。

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