2011年12月07日

1986年の残照 ジャーナリズム 22

 理由は、理想状態では永久に動くという理屈を実感させるためだ。
 初速が与えられるとそのままの速度でずっと動き続ける様子を目で見させるためにそうしている。
 初速が大きければ、すぐに台の端についてしまい、慣性の法則のせいなのか、勢いをつけたためなのかわかりにくい。
 また、ニュートン力学における力とは、速度ではなく加速度だとしっかり理解させた。速度が変化しているときこそ力が働いていると実感させた。
 単に公式を覚えさせるのではなくて公式の物理的な意味を感覚的に理解できるようにした。
 理論の教え方も大胆で、物理学の概念を大きな枠組みで理解できるようにした。
 たとえば、高校物理において考えるべき力とは推進力と抵抗力であって、そのどちらかに分類すればいいとか、力には量と向きがあり、それを表現するのに最適だから数学の簡単なベクトル計算を使うのだ、という教え方だ。
 伝え聞く話によれば、狭山の教え方は物理の本質が生徒に簡単にわかるので、狭山が教えるクラスの物理の試験の平均点はずば抜けて高いらしい。

 そんな物理担当の高校教師・狭山が暮らすアパートを江垣は缶ビールとウイスキーのボトル、つまみを携えて訪ねた。



2011年12月09日

1986年の残照 ジャーナリズム 23

 アパートのドアが開いて狭山が顔を出すと江垣が「おみやげだよ」と言って、持ってきたアルコール類を見せると生真面目そうな狭山の顔が綻んだ。

 畳の部屋に入って卓袱台の前に腰を下ろすと、さっそく缶ビールの栓を開けて二人は飲み出した。
 狭山は髪の毛をさっぱりと刈り込んでいて、顔つきにも神経質そうなところがあるのだが、アルコールが入ると朗らかになって口も軽くなる。

「狭山よ、簡単物理学勉強法とかいう本を出したらどうだ? バカ受けじゃないのか」江垣は言った。
「本か?」狭山はきょとんとしてビールを飲むと続けて言った。「たぶんページ数が十ページくらいにしかならないと思うが、そんなんで本が出せるのか」
「十ページ? それしか書けないのか?」

「それしか、じゃなくて、おれはざっくりとすべての理屈をまとめて教えるんだよ。だから、そんなに書くことはない。
 細かく分けすぎるからわかりにくくなる。物理学の理論は一つだ。その一つを教えて、あとはうまく応用すればいい。
 応用と理論をごっちゃにするからいけない」
「応用はどうやって教えてる?」

2011年12月11日

1986年の残照 ジャーナリズム 24

 狭山は答えた。「それは教科書の練習問題をやらせたり、大学入試問題から選んでやらせてる。それは別にプリントを作ってやってる」
「それじゃ、応用もひっくるめると十ページというわけにはいかないね」江垣は狭山の主張の矛盾を見つけるとちょっと得意げに言った。

「理論がわからなければ、応用もへったくれもない」狭山は突き放したように言った。
「まっ、そうだけどさ。ところで今、狭山の前の職場が騒がしくなってるよな」江垣は曰くありげに言った。

「ああ、繊維業界の汚職か?」狭山は白けたように言った。
「うん、そっちもだけど、巨大プロジェクトもあるよね」
「ああ」と狭山は思いついたようだった。「汎用スーパーインテリジェントコンピュータのことか。バカなことをやるもんだよな」
「バカなこと? 壮大な計画だとは思うけど、バカなことなのか?」江垣は興味深そうに言った。

「あんなの無用の長物になるよ」狭山はクールに言い放った。
「無用ね……狭山の恩師の久我教授も懐疑的だよね。でも、ああいうのを開発していろんな派生技術が生まれればそれでいいんじゃないの?」
 こう言うと江垣は探るような目をして狭山を見た。
「久我先生は江垣に何て言った?」

2011年12月12日

1986年の残照 ジャーナリズム 25

「現在の技術水準ではああいう人工知能を作るのはまだ夢物語だと言ってたね。先生は税金の無駄使いになるから止めたほうがいいって言ってたけどね」江垣は淡々と言った。
「他には?」狭山の言い方はちょっとぶっきらぼうだった。

「他は別に無かったな。政府が言うような夢のある話でも無さそうだけど、プロジェクトは大きくなってるみたいだね。研究機関が建つ土地の周囲が騒々しくなってる」
「あれさ、何考えてるのかさっぱりなんだよな。あんなことやってどうするのかと」
「純国産の高度な技術を育てるためだろ」と江垣はいったん嘯くと続けた。「でなきゃ、土地の値上がり益を手にしたいかだな」

 狭山は訝しげな表情を浮かべた。
「土地? そういうのもあるのかね。
 そうでなければ、日本ではまともなプロセッサを作る力が無いのに海外の人工知能の論文を受け売りしてる御用学者たちが予算欲しさにやってるだけだろうな。
 政官癒着はよく話題になるが、産学癒着ってのもあるからな。
 久我先生はまだ良いほうだけど、学者ってのは我が強いのが多いんだよな。官僚なんかよりずっと偉ぶってるよ。
 学者は官僚を自分のいいなりにして、産業界さえも自分の支配下に置こうとする。
 そんなに頭が良いと思ってるなら、アメリカみたいに実業の世界に飛び出して市場に自分の技術が受け入れられるかどうかチャレンジすればいいんだよ。
 まっ、そういう人もいないわけでもないけどね」

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