2012年02月03日

1986年の残照 警視庁の精鋭 8

 マンションのベランダからは、目の前の公園にこんもりと植えられている常緑樹の向こうの新宿副都心にそびえ立つ超高層ビル群が暗闇の中に浮かび上がっているのが見えた。
 早坂はまだ冷たさが残る春の夜風に吹かれながら、ベランダの手すりに手をついて、経済発展のピークに達したことを象徴するかのような東京の夜景を見ていた。
 このマンションは杉並区の閑静な住宅地に立っている。新築ではないが、中古と呼ぶにはまだ新しかった。

「早坂さん、どうぞ」と笙院正光がベランダにやってきて二つ持ったグラスの一つを差し出した。
 早坂は黙ってグラスを受け取るとグラスの中の薄緑色の液体を口に含んだ。アルコールとともに甘酸っぱい香りが口の中に広がった。
「良いマンションだな。ジンライムを飲みながら、こうして夜景を眺められるなんて優雅なもんだ」
「ええ、自分もラッキーだと思ってます。上川さんのおかげです」
「上川さんが?」早坂はわからないというようにぼそりと言った。
「このマンションは親にも資金援助してもらって買ったんですけど、煩い上司だと官舎を出るのも嫌がりますからね。上川さんは逆で積極的に部下に官舎を離れることを勧めているくらいですから」
「そうなのか?」早坂は怪訝そうに言った。



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2012年02月04日

1986年の残照 警視庁の精鋭 9

「そうです」笙院はきっぱりと言った。「上川さんはこれまでの警察の管理職とはかなり違うと思います。日本の警察の古い体質を改善しようとしてるんです。近代化しようとしてますね」
「近代化? ……今でも近代化か?」早坂は低い声で言った。
「そうですね、近代化といっても、明治時代にも警察の近代化はありましたし、終戦後にも近代化はありました。でも、根っこの部分では近代化してないと思うんです。上川さんは精神文化を近代化しようとしてる」
「そう……」と呟くと早坂は黙った。

 笙院はジンライムを口に含むと言った。「ぼくは早坂さんが警視庁に転任されたのも上川さんの改革の一環だと思ってます。年下のぼくがこう言うのも失礼かもしれませんが、上川さんが、ものすごく切れる警部が来る、と早坂さんが転任される前によく言ってました。
 早坂さんに来ていただいて、ぼくも捜査一課も期待感で盛り上がってもますよ。これからも早坂さんのような方がどんどん移ってくるようです」

 早坂は、笙院は確か三十歳くらいだったはずだと思った。そうすると自分より六歳ほど年下になる。笙院は警部補だったが、二十代半ばで警部補に昇進したと聞いていた。

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2012年02月05日

1986年の残照 警視庁の精鋭 10

 早坂は、表情を変えずにではあるが、特に不機嫌そうでもなく言った。「おれみたいな干からびたはぐれ刑事を増やすってことではないだろ? 笙院のような大卒の秀才を増やしたいんじゃないか」
「そんな謙遜されなくても。上川さんが大卒を増やしたがってのは事実です。知能犯が増えてますし、取り調べでも法律の知識に詳しいのがいます。
 社会に大卒が増えるに従って、大卒の犯罪者も増えてますから、犯罪者以上の知識は必要だろうということもあるようです。
 でも、警察官として無能な大卒には興味がないんです。あくまでも警察官としての優秀であるかどうかがカギです」
「警察官としての知識と能力か……」早坂は何か付け加えたいことがあるような気がしたが言葉が浮かんで来なかった。
「そうです。警察官としての能力が大事なんです」笙院はきっぱりと言った。

 早坂は二十二歳で警察官に採用されたのだが、大学を出ているわけではない。
 高卒時に正社員の職に就けず、建設工事の日雇い作業員をやりながらその日暮らしのような毎日を送っていた。そんな飯場暮らしの日々を抜け出そうと思い立ったのが二十一歳のときだ。
 警察の採用試験を受けることにした。深い理由があったわけではない。
 飯場のオヤジが盗みをしたかどで制服の警官に引っ張られるのを目撃したときに警察になろうと衝動的に決めた。
 日々の食い扶持にもときに困る飯場のオヤジを捕まえていく警官たちを見て、自分ならもっと良い警官になれると直感したのだ。

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2012年02月07日

1986年の残照 警視庁の精鋭 11

 早坂は、むさ苦しい飯場で試験勉強を開始した。勉強していても他の日雇い作業員からは特に冷やかされることもなく、そっとしておいてくれた。
 こういう日雇いのお互い不干渉・無関心という不文律のおかげで試験勉強に集中でき、試験には一発で合格した。

 全寮制の警察学校での訓練が始まると、心底救われたと思った。きちんとした住居で暮らし、そこそこうまい飯が三度確実に食える。
 政府が生活すべてを面倒見てくれる。自分以外に頼るものが無い毎日から解放されたような安らぎがあった。政府が優しい母親のように思えた。

 最初に配属されたのは東京都下の交番だった。赴任の初日に上司の五十代の巡査部長から警察で何がやりたいと聞かれた。
 刑事になりたいと答えると、それなら刑事にしてやると言われた。
 そして、それなら早く巡査部長になり、捜査の指揮権のある警部になれとも。

 次の日から巡査部長は昇任試験の問題集や参考書を交番に持ち込んで、早坂に勉強させた。巡査部長が市街をパトロールしているときは、交番で勉強しておけというのだ。もちろん、市民への対応は優先するようにと釘を刺されていたが。
 パトロールから帰って来ると、勉強した個所から巡査部長が問題を出して勉強してるかどうか確認した。
 そして、窃盗事件があったときなどは、巡査部長が犯人を捕まえても、早坂の手柄にしてやり、早坂の捜査手腕の高さを所轄署にアピールしてくれた。

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