2012年03月01日

1986年の残照 港の水死体 2

 古参の刑事だけでなく、若い刑事も手書きで報告書を書いている者がまだ多い。それは上司がワープロを使えないせいだ。
 技術の進歩に追い付けない上司を持てば、それに合わせて部下の進歩も遅れる。早坂のかつての上司もワープロを使えなかったが、早坂はワープロで報告書を書いていた。
 ワープロで書いた報告書を提出するたびに上司が怪訝な顔をしているのがわかったが、気にせずにワープロの報告書を出し続けた。
 おかげで、早坂は上川の最初の先端技術活用度試験には合格できた。もちろん、そんな試験を上川が表向きやっているわけではないが。

 夕刻、すでに日の沈んだころ、早坂が、飲み屋での殴り合いやら、独居老人宅への強盗事件やら、風俗店での殺しやらの捜査報告書を読んでいると上川がやってきた。
「早坂さん、大井埠頭で水死体が上がった。ちょっと見に行ってくれ」
「わかりました」と言って立ち上がると上着を着て書類を片付けた。
 出かけるとき、上川は後ろから声をかけてきた。「勉強も疲れたろうから、息抜きしてこい」
 早坂は事件性の無い水死体のようだと思い、気分転換をさせてくれる上司に内心皮肉っぽく感謝しながら現場に向かった。



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2012年03月02日

1986年の残照 港の水死体 3

 外は街灯がともり、宵闇が迫っていた。すでに季節は春で、日暮れは日に日に遅くなっていたが、まだ太陽が大活躍する季節ではなかった。
 水死体現場の見学――現場検証というには、結論がはっきりしているように思われた――は戸越の自宅に帰る前の軽い娯楽になりそうだった。

 現場は埠頭の端のほうの使われていない廃船同然のタグボートが係留されているあたりで、古びた倉庫が並んでいた。
 所轄署地域課の制服警察官がすでに現場を取り仕切っていて、周囲は黄色のテープで立入禁止線が張り巡らされていた。
 パトカーの赤色回転灯や夜間照明灯などで現場一帯だけが奇妙に明るく浮き上がっていた。ただ、野次馬があまり集まっていなかったので、縁日の屋台のような賑々しさが無いのが残念だった。

 早坂は立入禁止線の前で仁王像のように立っていた一人の制服警官に近づき、警察手帳を見せた。
「警視庁の早坂だが、ホトケは」
 この制服警官は右手を上げて敬礼した。「ご苦労様です。遺体はあちらになります。ご案内します」
 水死体は古びた倉庫と倉庫の間の細い通り道に横たわっていて、布がかけられていた。

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2012年03月03日

1986年の残照 港の水死体 4

 制服警官が水死体周辺にいる警官に早坂警部だと告げると自分の持ち場に戻った。
 早坂が水死体に近づくと、そばにいた警官が布を上げて水死体を見せた。
 水死体は、下はスラックス、上はシャツにジャケットを着ていて、どれもカジュアルなものだった。

まだ腐敗は見られず、十分に肉体の原型を止めており、外観に傷らしきものは見当たらない。早坂がよく見る腐敗した水死体と比べるときれいなものだった。

 水死体は、腐敗がかなり進行していた場合、身体が水脹れになって薄気味悪く膨張し、肌は紫色に変色している。
 ときには肉体の一部が魚の餌になっていることもある。
 早坂はこの手の水死体を何度も見てきた。未だに見るたびに気分が悪くなるが、気分の悪さの質は変わっている。
 死んだ肉体、腐った死体が醸し出す不気味な恐怖からはとうの昔に卒業していた。
 卒業できないのは、この惨たらしさが証明している事実だ。それは、知能の最も高い生物であるはずの人間が生物種としては情けなくなるくらいとてつもなく弱く、この弱さから免れることはあり得ないという厳然たる現実だ。

「ご苦労さまです」と後ろから声をかけて来る者がいた。
 早坂はおもむろに振り返り、「おまえも来てたのか」と早坂は低い声でぼそりと言った。

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2012年03月04日

1986年の残照 港の水死体 5

「はい」と笙院が言った。「ぼくが最初に死体の確認をしました。溺死だと思いますが、どう思われますか?」
 早坂はきれいに原形を留めた水死体をじっと見た。鼻と口からは白い泡が零れ出ていた。

「死後硬直は確認できた?」早坂は言った。
「ええ、確認できてます」笙院はきっぱりと言った。
「そうすると」早坂はゆっくりだが慣れたように言った。「死後半日から一日程度で溺死でいいな。昨晩海に落ちたんじゃないのか」
「そうですね。どうして落ちたかですよね。深夜、埠頭を散歩して足を滑らせましたかね」
「そうだな。あるいは誰かに投げ込まれたか。まだ目撃者はいないのか?」

「遺体を最初に見つけたのは埠頭の貨物取扱会社で働いている者です。休憩時間にぶらぶら歩いていたら、たまたま浮かんでいるのを見つけたようです。ここの埠頭で働いている者にはすべて事情聴取しましたが、昨晩は誰も何も見ていないようです。叫び声も聞かなかったと皆言っています」
「そうか。バカが飛び込んだかな」早坂は低い声で言った。
「入水自殺の線と事故という線で調べてみるつもりですが、構わないでしょうか?」

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