2012年04月01日

1986年の残照 令嬢 10

 会場入り口では三十歳くらいの女性が受付をしていた。名前を告げるとこの女性は胸につける名札をくれた。
 会場の中は本来の広い宴会場を間仕切りして小さくしてあった。蛍光灯の照明ではなく間接照明中心のオレンジ色の柔らかい灯りが空間を照らし、壁には緑色のサテンのカーテンがかけられていて、温かみを醸し出していた。前のほうにはグランドピアノが置かれてあった。
 丸テーブルが七つあり、どれも赤い厚手のクロスで覆われていた。何人かが丸テーブルを囲んでグラスを傾けながら談笑していた。

 会場入口を入ったすぐ右横には臨時で作ったようなバーカウンターがあり、そこで飲み物を出していた。早坂と笙院はそこでウォッカベースのカクテルを受け取ると一番後ろにある誰もいないテーブルを囲んだ。
 早坂は刑事という仕事柄スーツは何着も持っていたが、その中でも最も落ち着いたダークグレーのスーツを着ていた。今いるパーティーの参加者の様子を見るとそれで良かったようだと納得した。

「このインテリアは、パーティーのためだけに用意されたのかな?」早坂は呟くように言った。
「ええ、たぶんそうでしょう。クロスや間接照明は特別に用意されたものだと思います。でも、ピアノは常設のようですし、丸テーブルはたぶんこのビルのものでしょう。それに」と笙院は後ろを振り返った。「ああいうバーカウンターもこのビルで用意できるのでしょうね」



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2012年04月04日

1986年の残照 令嬢 11

「高級感があるね」と早坂は居心地の悪さを感じながら言った。
「ええ、高級感があるのは早苗お嬢さんのパーティーではいつものことですが、今日は落ち着いた雰囲気がありますね」
「落ち着いて無いときもあるのかい?」背の高い早坂は笙院を見下ろすよう見て言った。
「ありますよ。飛んでるときもあります」
「どんな風に?」早坂は不思議そうに言った。
「ディスコミュージックが流れるときもあるんですよ」笙院は俯いて照れ笑いのような笑みを溢して言った。「ダンサーが中央のフロアで激しく踊るんです」
「何だ、それ?」
「早苗お嬢さんは警察のためにいろいろなことを考えてくれてるんです。警官がディスコに行くわけにはいきませんよね?」
「客としては行かなくても、取り締まりでは行けるだろ? 中にはうまいことやって顔パスでも遊んでるのもいるよな?」早坂は皮肉交じりに冗談めかして言った。
「まあ、風俗関係に強い人もいるようですけどね。真面目な警官はそういうわけにはいきません。それと出会いが無いということもあります」

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2012年04月05日

1986年の残照 令嬢 12

「ああ」と独身の早坂は息を漏らすように呟いた。
「早苗お嬢さんは男女の出会いの場のようなものを作ってくれてるんですよ」笙院は言った。
「笙院も奥さんとそれで出会ったのかい?」
「ぼくは違います。学生時代からの付き合いです。腐れ縁みたいなものです。ぼくも何度か参加しましたが、他の署で働いている同年代の警官とも話ができるので楽しいですし、情報交換にはなりますね」

「早苗お嬢さんは独身だよな?」
 笙院には早坂の質問が唐突に感じられた。
「ええ、そうですね」と笙院は怪訝そうに言った。
「ご自分のお相手探しも兼ねてるのか」と言う早坂の声は事務的に響いた。
「それはないでしょう。お嬢さんが、若い警官と結婚するとは思えません。お嬢さんほどになると相手はいくらでもいるんですよ。偉いさんからの紹介も山のようにあるようですから。ただの選びすぎですよ。選択肢が多すぎて一人を選べなくなってる。モテすぎるのも、それはそれで考えものですよ。このままじゃ」と笙院は周囲を見回してから声を潜めて言った。「行かず後家ですよね」

posted by 論虚空 at 06:53| 1986年の残照 5章 令嬢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月06日

1986年の残照 令嬢 13

 早坂は会場内の他のテーブルに視線を泳がせた。「今晩のパーティーは、ディスコは無さそうだな」
「そうですね。年配の方が多いようですから」
「ディスコの他にはどんな演出があるんだい? 年配者の井戸端会議かい? それともテーブルの上に囲碁盤を置いて囲碁大会でもやるのか? この雰囲気だと囲碁や将棋よりもチェスが似合いそうだが」

 笙院はほくそ笑んだ。「テーブルの上に囲碁盤は似合いませんね。やるならチェスでしょうね。それでもイスがありませんから」
「チェス大会が始まるとなれば、突然何人ものエプロンをつけた召使いがイスを持って現れるんじゃないのか? 『お客様お座りください』ってなもんだ」
「ええ、早苗お嬢さんには召使いや執事が何人いても不思議でない雰囲気がありますね。実際お手伝いさんや家政婦さんは雇っているようですがね」
「生まれながらにして豊かな人はいるんだな」早坂は冷ややかに言った。
「ぼくもときどき刑事をしていて考えさせられるときがあります。検挙する犯人のほとんどがカネに困っての犯行です。カネに困った犯人が一般人を襲うケースが多いです。金持ちが犯罪を犯すこともなければ襲われることもめったに無い。金持ちには貧乏人には近づきにくいですから、そこからカネを奪おうという気にはならないんですかね。襲いやすい一般人や似たような境遇の低所得者を狙う。まるで……」
「貧乏人同士が食い合いをしてるようなものか」早坂は笙院の意を汲んで言った。

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