2011年10月11日

1986年の残照 円高 3

 丸顔で小太りの店のおばちゃんが割烹着を付けたまま奥の調理場から出て来た。
 手には急須を下げている。おばちゃんは江垣の湯飲みにお茶を注いだ。
「仕事かい?」おばちゃんは言った。
 江垣は黒い背広を着ていて、黒いアタッシュケースを下げていた。普段はラフでカジュアルな格好が多いのだが、今日は身なりは良くてもどこか胡散臭い業界人風に見えた。
「うん、そうだね」と江垣はテレビから目を離すとおばちゃんを見た。
 このおばちゃんは、国民共通の頭痛の種となっているプラザ合意も円高もまったく関係無さそうなほどに幸せな丸い顔をしていると江垣は思った。

「最近はあんたみたいな人がよく来るよ」
「おれみたいな?」と江垣は怪訝な顔をすると続けて、探るように言った。「みんな、やっぱ不動産関係かな?」
「いやー、あんたもそうかい。もうこのへんじゃ、みんな大騒ぎになってるよ。本当にどうなることやら」おばちゃんは破顔一笑して言った。

 おばちゃんの言う大騒ぎというのはこの町を歩いていても外観ではわからない。春を待つ土が掘り返された田んぼが広がった先に連なる奥多摩連山の稜線は美しく、ここが二十三区と同じ東京都であることが信じられないくらい自然は豊かだが、町は人通りが少なく、寂れている。

「そんな大騒ぎになってるんだ。今からでも商売のチャンスはあると思う?」江垣は物欲しげに上目遣いで言った。
「どうかねー。何しろすごいことになってるからね」
「土地が動いてるって聞いたんだけど、みんなニヤニヤするだけで口が堅いよね」
「あー、そうかい」おばちゃんは笑うと言った。「うちにさえ、いろんな人が来るからね。あんたもこの店に興味はあるかい?」
「この店ね」と江垣は店内を見回した。十人も客が入ればいっぱいになるような広さしかなく、壁もテーブルもイスも床もすべてが古く時代遅れだった。「そうだねー」と江垣は経験豊富な不動産業者が値踏みするように首を捻った。



posted by 論虚空 at 08:23| 1986年の残照 序章 円高 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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