2011年10月12日

1986年の残照 円高 4

 おばちゃんは思案気な不動産業者風の男の答えを待つ間もなく話し出した。
「あたしもね、どうしようかと悩んでるんだよ。ここでは戦争前に先代からやってるからね。簡単に土地を手放すわけにもいかない。それにここを離れてどうやって仕事をしていくかもわからないしねー」おばちゃんは嬉しい悩みを話した。

「億単位のカネがいるよね?」江垣は言った。
「あっはっはっははー」とおばちゃんは腹を抱えて笑うと続けた。「あんたもいい線いってるよ。いつでも相談に乗ってあげてもいいよ」
「あのさー、それじゃ、訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「いいよ。何でも訊いとくれ」おばちゃんは顎を引き、胸を張って言った。

「この店の買い取り価格を言ってくる不動産屋はいくつくらいあるの?」
「そうねー」とおばちゃんは秘密めいて言った。「これくらいかな」と両手を示した。
「結構話は煮詰まってるの?」江垣は焦ったように言った。
「そりゃ、あんた、いろんなことを考えてるよ。この店を売るとかどうとかという話だけじゃないからね。このへんの商店仲間とも話し合ってるよ。知ってるよね? すごいものが出来るんだよ」
「もちろん、知ってるよ。国立の科学研究所ができるんだよね」

「それがさ」とおばちゃんはさも嬉しそうに前に手を突き出して振った。「最初はなんだか難しいものが出来るんだってことだったのよ。そんなものが出来てもあたしらにゃ関係無いって思ってたのよ。
 そしたら、政府の計画がすごいらしいじゃないさ。ここら一帯にものすごい施設がいくつもできて、人もたくさん住むようになるらしいんだね。
 それで、土地を取られちゃうんじゃないかってそりゃ恐れたわよ。でもさ、国がそれなりの価格で買い取ってくれるらしいって言うからそれでみんなほっとしてたわけよ。
 そしたら、それからがたいへんよ。
 あたしの知り合いの農家の奥さんなんか、毎日不動産屋さんの相手をさせられてるらしいのよね。それがね、農地の転売は規制があるんだけどここでは転売の許可は簡単に下りるみたいなのね。それでもって、価格がどんどん上がっていくのよね。
 それも、転売するたびに上がるようになってるらしいのよ。
 中にはもう手放した農家もいるんだけど、損したって悔しそうなのよね。だから、他の農家はじっと待ってるのよ。転売業者に儲けさせるのはバカバカしいからね。それで、値上がりを見込んで様子見をしてるの」
 おばちゃんは一気に話し終えると、その幸せそうな丸顔をさらに丸くして、夢見るような視線を遠くに投げかけた。




posted by 論虚空 at 18:19| 1986年の残照 序章 円高 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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