2012年03月21日

1986年の残照 令嬢 1

 日が沈んでからすでにかなり経っていた。窓の無い会議室は、賑やかに大都市の夜を彩るネオンライトから隔絶されている。無味乾燥な壁に囲まれ、世間から切り離された権力機構の陰鬱な空気が流れる。

 管理官の上川の顔には一日の仕事の疲れが見え、どこか不機嫌そうだった。笙院は半ば期待し半ば恐れながら上川を見ている。憂いを含んだ早坂は、上川が口を開くのを待った。

 上川はイスの背凭れに背中をぐっと押しつけて、天を仰いだ。沈黙の時が流れる。
「話はわかった」上川は身を乗り出して会議用テーブルに肘を突くと言った。「フリージャーナリストの江垣真一は政界スキャンダルを追っていて、スクープをものにする寸前に誰かに消されたということだな?」
「ええ、その可能性も否定できないのではないかと……」と笙院は不安げに言った。
「可能性は低いだろ」上川は言った。「早坂さんはどう思う?」
「週刊毎報の編集長は、江垣が新しい国立研究所の土地売買を巡るスキャンダルを追っていたと証言しています。
 詳しい説明は聞いていないようですが、江垣からとびきりのネタを手に入れられそうだとは聞いていたようです。そういう段階で変死したというのは気になります。
 ですが、江垣の自宅の実況検分では、その手の取材記録はまったく出て来ていません。それも不可解です。編集長の話では江垣はこのスキャンダル一本に絞って取材していたようですから」



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2012年03月22日

1986年の残照 令嬢 2

「つまり、こういうことか」上川はおもむろに言った。「江垣を消した闇の勢力が、取材記録を盗んだと?」上川はいったん重苦しく黙ると、続けた。「江垣は極秘情報を掴んでいて、誰だかわからない闇の勢力に殺され、すべての取材記録も奪われたと。
 闇の勢力は目撃者のいないところを狙って一切証拠を残さずに人を殺す。こんなことはめったにできるものではない。やったのは殺しを職業とするプロの殺し屋だ」

 上川は二人を交互に見ると続けた。「きみらが溺死の背後に巨悪の存在を感じるのは構わない。疑問を持つことが事件の問題点を明らかにし、解決に導く。刑事というのはそういう嗅覚を常に働かせていなければならない。だがな」上川は一瞬視線を落とした。「常識というのも大事だ。ときに常識が捜査の妨げになることもあるがな。
 いいか? この溺死体からは毒物は検出されず、凶器で殴られた痕も刺された痕も無い。肺からは海水が出てきたので、殺されてから海に投げ込まれたわけでもない。
 ホトケには遺書は残っていないが、大酒飲みだ。これは常識的に考えれば、他殺でも自殺でも無く、ただの事故だ。夜中に酔っ払いが埠頭に無断で入って、誤って足を滑らせて海に落ちた。そう考えるのが妥当だろう」
 上川が笙院を凝視すると笙院は怯えたように俯き、早坂の顔の憂いは濃くなった。

posted by 論虚空 at 12:14| 1986年の残照 5章 令嬢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月23日

1986年の残照 令嬢 3

「だがな」上川は毅然として続けた。「事件性がまったく無いわけではない。殺しの目撃者がいないということは、事故の目撃者もいない。
 事故の可能性が強いからといって事故だと断定できる証人もいない。そうだ、ホトケは巨悪を追っていた。巨悪にやられたんだ。
 だから、警察はその公権力を思う存分行使して、次々と疑わしい連中を引っ張って、ヤクザまがいの圧力をかけて証言を引き出す。
 その中で一番疑わしい者には拷問じみた尋問をして、根負けさせて自白させる。
 その疑わしき連中とは誰だ? そのへんのチンピラか? ゴロツキか? それともヤクザか?」上川の目は笑った。「そうじゃない。疑わしき連中とは政治家や官僚だ。そういう連中を次々と連行する。そして、力尽くで証言を得る。そういうことになるのかな?」

「いえ」と笙院はか細い声で言った。
「え? どうする?」と上川は呆れたように言った。「我々警察が大挙して国会や官庁に乗り込むのか? それで、殺しの証拠はどこにある。凶器も無ければ、毒物も無い。物的証拠が何も無い。
 国会や官庁から引っ張ってきた連中を無理矢理吐かせても、肝心の物的証拠が無い。検察は何と言うかな?」上川はイスの背凭れに深く凭れると二人を鷹揚な態度で見た。「検察の言い分は理に適ってる。『これでは公判が維持できない』だ。
 それどころか、あとで自白を強要したことがわかれば、マスコミが騒いで、警察は世論から非難の集中砲火を浴びる。どうかな?」

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2012年03月24日

1986年の残照 令嬢 4

 早坂は上川が大事件に関心が高いのはわかっていた。特に政界を巻き込んだ一大事件に、できれば捜査の指揮官として関わりたいはずだ。
 ただし、犯罪性の見通しが明らかな場合だ。最初から犯人の目星がついていて、形だけの捜査で大物を逮捕できるなら、これ以上の自分のアピールの場は無い。そういう楽な大事件を求める管理官にとって、表向き事件性が薄い政界絡みの捜査はやりたくないはずだ。
 まず政界捜査の大義名分が立たないし、立証の難しい事件で政界を捜査し、結局犯罪者を見つけられなければ、上川の管理能力に疑問符が付き、それを世間に曝してしまうことになる。当然、公務員として将来の出世にも影響する。
 だから、江垣溺死の件で捜査を進めるのは無理かもしれないと早坂は思った。

「この件はおっしゃる通り見かけ上、事件性は非常に薄いと思っています」早坂は低く厳かに言った。「ですが、気掛かりな点があることは事実です。ホトケの自宅からは国立研究所絡みの取材記録がまったく出てこないというのも奇妙な話です。
 週刊毎報の編集長がいい加減な話をするとは思えません。それで、かなりのネタを掴んだということであれば、相当踏み込んだ取材をすでにやっていたと推測できます。それなのに取材メモすら出て来ていません。何かがありそうな予感がします。もちろん、これはあくまでもカンですが。
 解剖の結果から考えれば、事故で終わらせていいような話です。そうしても誰も非難しないでしょう」

posted by 論虚空 at 10:02| 1986年の残照 5章 令嬢 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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